軍隊はしばしば退却の可能性を自ら否定することで、実行に確実性を付与する。この戦略は、少なくとも、征服王ウィリアムの侵略軍が自分の船を燃やした1066年まで遡ることができる。この船を燃やすという行為は、後退せずに戦うという条件なしの状況(不退転決意)を作り出している。コルテスはメキシコを襲った際、これと同じ戦略を用いた。メキシコのセンポアーラに着くや、コルテスは一隻を除いて自軍の船をすべて燃すか就航不能にするよう命令を下した。
コルテスの軍勢は、数では大きく負けていたが、こうすることで、戦って勝つ以外の選択肢はなくなった。「もし失敗していたら、それは狂気の沙汰であったろう。しかし、その戦略はきちんとした計算のうえになされていたのだ。彼の心中には成功するか滅びるかのどちらかしかなかった。船を破壊することはコルテスに二つの利点をもたらした。まず、第一に軍内に団結が生まれた。脱走、あるいは退却が不可能である以上、最後まで戦わざるを得ないことを各々が承知した。第二に、これはさららに重要なことであるが、敵に(威嚇)効果を与えた。
敵側はコルテスが戦うか死ぬしかないことを知り、一方、自分たちは奥地へ退くという選択肢を持っていた。敵は決死の覚悟の軍団と戦うより、退却することを選んだ。この種の戦略が予定通りの効果を上げるには、指揮官だけでなく自軍と相手群の両方の兵隊に理解させる必要がある。その意味で、「艦艇の破壊が耳学問の作戦としてだけでなく、コルテスの示唆があったとはいえ、兵士の賛成を得て行われた」というのは大変興味深い。
この自分の船を燃やすという考えは、時間とともに戦略的思考が発展する様を表している。トロイア人はギリシャ軍がヘレンを助けにトロイにやってきたときに、反対に考えていたようだ。ギリシャ軍はトロイの町を征服しようとし、トロイア軍がギリシャ軍の船を燃やそうとした。しかし、もしトロイア軍がギリシャ軍の船を燃やすのに成功していたら、それはただ単にギリシャ軍を決意の固い手強い相手にするだけだっただろう。
実際、トロイア軍はギリシャ軍の船を燃やすのに失敗したので、ギリシャ軍は退くにあたって木馬を残していったのであり、回顧すると、トロイア人はその贈り物を受け入れるのにちょっと性急だったといえる。現代では、この戦略の応用は海と同様陸上にもみられる。何年にもわたり、ポラロイドはインスタント写真以外の事業へ多角化するのを意図的に拒んできた。全てをインスタント写真に賭けて、そのマーケットへの侵入者とは徹底的に戦う姿勢をポラロイドはとった。
1976年の4月20日、28年間のポラロイドの独占は破られた。コダックが新しいフィルムとカメラを携えて、インスタント写真の市場へ参入したのだ。ポラロイドはコダックを特許権の侵害で訴え、激しく応戦した。ポラロイドの設立者であり、会長であるエドウィン・ランドは自分の市場を死守する構えを見せた。「これ(インスタント写真)は、われわれが取り組んできたわれわれの魂だ。これはわれわれにとって命そのものなのだ。しかし、彼らにとっては事業の一分野にしか過ぎない。われわれはわれわれの源にとどまり、われわれの源を守り抜くのだ」。マーク・トウェインはこの哲学を『とんまのウィルソン』の中で説明している。
「見よ、愚かなるものは言う、"全ての卵を一つの籠の中に入れてはいけない。"
しかし賢者は言うのだ、"全ての卵を一つの籠に入れよ。そして、その籠に注意を集中するのだ"」。
数年間の訴訟の後、ポラロイドは完全の勝訴を得た。コダックはインスタント写真からの撤退を余儀なくされ、ポラロイドはインスタント写真市場における圧倒的地位を回復した。一方、ポータブルビデオと1時間仕上げの現像というライバルの出現で、ポラロイドの経営基盤は揺らいできた。ポラロイドの本業は沈みつつあるかのように見え、結局、ポラロイドは企業理念を変更し、ビデオフィルムや通常のフィルムに進出する道を選んだ。
一般に逃げ道をなくすには、本当に船を燃やしたりする必要はない。特定の投票者を敵に回す政治的立場をとることで、象徴的に退路を断つこともできる。モンデールが1984年に民主党の大統領候補指名を受け入れたとき、彼は増税を公約することにより退路を断った。サプライサイド・エコノミックスを信奉する投票者はモンデールから完全に離れ、このことは赤字減のため増税を支持する投票者とモンデールとの一体化を促進した。ただ、モンデールにとっては不運なことに、増税に反対の投票者はあまりに多かった。
最後に、退路を断つのではなく退路を作ることも実行を裏づけるものとして機能する場合がある。1989年12月の東ヨーロッパの改革で、退路を作ることは壁を壊すことを意味した。夥しい抗議や他国への移住に対処するため、東ドイツ首相クランツは革命を約束しようとした。しかし、彼には具体的な案がなく、人々は改革に懐疑的であった。曖昧模糊とした約束が本物で、長く続くと信ずる根拠はなく、また、たとえクランツが改革に本腰を入れたとしても、権力の座から滑り落ちる事態も考えられる。そこで、ベルリンの壁の一部を破壊することは、東ドイツ政府が詳細案はまだできていなくても、改革に本気であることを示すのにやくだった。西側に道路を通すことで、政府は改革をするか出国を認めるかという局面に立たされる。改革の約束は信頼度を増し、実際に東西ドイツの統一が実現しつつある。