自由意志主義の基本原則に、人には他人から干渉されずにある種の決定する権利があるというものがある。社会的な決定は、この原則と両立するだろうか。多くの人が個人の自由だと思っているもの、例えば寝室の壁を何色にするかという決定について考えてみよう。ローゼンクランツとギルデンスターンという二人の人が壁の色を赤か緑かに塗る場合、四通りの塗り方がありえる。
ローゼンクランツが赤でギルデンスターンが緑の場合を「赤、緑」と書くことにしよう。その反対の場合は「緑、赤」、二人の壁とも赤の時は「赤、赤」、緑のときは「緑、緑」と書く。自由意志主義の原則の一つの解釈として、「色以外の他の属性が同じなとき、壁の色は壁の所有者が自由に決めてよく、その決定は社会的に認められなければならない」というのが可能である。
ローゼンクランツはノン・コンフォーミスト(色彩的非調和主義)で、自分の壁はギルデンスターンとは別の色にしたいと思っており、一方のギルデンスターンはコンフォーミスト(色彩的調和主義)で自分の壁をローゼンクランツと同じ色に塗りたいと思っているとしよう。このような状況では、自由意志主義の原則に沿った決定はできない。こうした問題が起きるのは、各人の選好が自分の壁の色でなく、相手の壁の色に関係しているからである。
このような選好を社会的に認めたら、互いに過度の干渉を招くことになる。だから、自由意志主義の意味に制限を加えた二番目の解釈を考えてみよう。それは、「もし自分の壁の色に絶対的な好みがあり、他の属性は同じで、違いは色だけであるとすれば、その人の好みは社会的に認められなければならない」というものである。ここで、ローゼンクランツは、ギルデンスターンの壁が赤であろうと緑であろうと自分の壁は赤にしたいと思っているとしよう。
同時に、ギルデンスターンの壁は赤であってほしいとさらに強くねがっているとする。この場合、彼の選好は「赤、赤」が一番で、次いで「緑、赤」、「赤、緑」、「緑、緑」の順となる。一方、ギルデンスターンは同じような趣向を緑について持っており、彼にとっての選好の順位は「緑、緑」、「緑、赤」、「赤、緑」、「赤、赤」、である。自由意志の原則通りにすると、互いにとって悪い結果になることを説明したい。自由主義をうまく機能させるにはどうすればよいか。
《ケース・ディスカッション》
自由意志主義の原則に従うと、プレーヤーは囚人のジレンマに陥る。ローゼンクランツが相手の選択にかかわらず赤を塗りたいというのは、絶対優位の戦略に似ている。自由意志主義の考え方では、彼の選好は社会的に認められる。同様に、ギルデンスターンは壁を緑にするのが絶対優位の戦略であり、この選択も社会的に認められるべきものだ。その結果、二人の選択の組み合わせは「赤、緑」になる。
しかし、実は二人とも「緑、赤」の方が「赤、緑」より良いと思っている。両者が自分の絶対優位の選択をすることで、両者にとってより劣った結果になってしまい、まさにこれは囚人のジレンマである。一つの解決策は自由意志主義の解釈をさらに限定することである。つまりローゼンクランツの緑より赤を好むという趣味は、例えば彼が「赤、緑」と「赤、赤」を、「緑、赤」と「緑、赤」より好むといったように、より干渉的でない場合に限って社会的に認められる、というものだ。
これなら一応機能するが、この例題では色の好みは干渉的なのでこの解釈では解決できない。哲学者はこの問題を際限なく議論しており、自由意志主義における権利にさらに制限を加えてみる。しかし、こうした提案の大部分は、他人のすることに干渉的な選好を持つ人々の社会的決定に、自由意志主義の考え方をあてはめている。本当に有効な解決策法は、どこまでがプライバシーの範囲かという点で皆が一致し、上記のような事柄に関しては、他人の選択について自分は選好を持たない(他人の選好には無関心だ)ということで皆が合意することである。言い換えれば、自由意志主義が社会の規範として機能するためには、それは個人の選好の中に深く浸透していなくてはならない。