《瀬戸際からの脱出》
効果的に瀬戸際戦略を実施するために必要なものの解説も最後の段階にきた。脅された側は、条件を飲むことで危険を十分に下げられることが必要だ。スペードからみれば、ガットマンが鳥のありかを知れば機嫌がおさまることを保証してもらわねばならないし、フルシチョフにとっては、自分が折れればアメリカもすぐに封鎖を解くことが確実でなければならない。
そうでなければ、相手の言うことを聞いてばかをみるし、あるいは相手のいうことを聞かずにやはり馬鹿を見るということになり、相手に従う意味はなくなる。アメリカの通商政策は、コントロール機構なしの瀬戸際戦略の例といえる。アメリカの通商当局は、日本や韓国に対し、議会がもっと強力な保護措置をとる恐れのあることを示唆しながら、アメリカ製品への市場開放とアメリカ製品への輸出削減をもとめた。
「もし、ほどほどのところで合意に達することができなければ、議会はそちらにずっと損になる制限策を実施するだろう」というものである。結果として、1981年に日本は自動車について、いわゆる自主輸出規制を行うことに同意した。通商交渉でこのような戦術を用いることの問題点は、危険を作り出すことはできるが、必要な範囲内にとどめておけないということである。
何か他のことで議会が忙しいときには、議会が貿易保護策を講じる可能性は非常に低く、脅しは効果を持たない。一方、議会が貿易赤字問題に身を乗り出せば、アメリカ側行政当局にも厄介な代物になるか、まったく他国への制限に適したものでなくなる可能性が高い。かくして、やはり脅しは効果がない。アメリカの権力分立型抑制と均衡のシステムは危険を作ることはできるが、効果的コントロールに弱みがある。
《瀬戸際からの踏み外し》
瀬戸際戦略を実行する際には常に瀬戸際を外してしまう危険がついてまわる。戦略家は、キューバ・ミサイル危機を瀬戸際戦略の成功例と見るかもしれないが、もし超大国の戦争の危機が現実のものになっていたならば、評価は大きく違ったものになったであろう。生き残った人たちは、ケネディのことを無謀で不必要な危機をもたらしたとして恨んだことだろう。
しかし、瀬戸際戦略をとり、瀬戸際からの踏み外しが本当に起こる場合もある。1989年6月の中国の学生虐殺は悲しい実例である。北京の天安門広場を占拠した学生たちは、政府強硬派と衝突の危機に直面していた。どちらか片方が引き下がる必要があった。強硬派が改革運動のリーダーに権力を譲るか、あるいは、学生が要求を引っ込めるか、いずれかの事態が予見された。
対立の間中、政府強硬派が大規模な行動をとり、民主化運動を武力で鎮圧する危険は常に存在していた。両者が瀬戸際戦略を行使し、両者とも譲らないとき、確率上起こりうる悲劇的な結末を迎える可能性があった。天安門事件の後、政府指導者たちは瀬戸際戦略の危険性をより深く意識するようになった。
東ドイツとチェコで同じような民主化運動が起こったとき、それぞれの共産党指導者は、人々の要求をいれることを決定した。一方、ルーマニアでは、権力を維持するため暴力的な手段を用いて改革の流れに抗おうとした。暴力は内戦の域にまで達し、最後にはニコラエ・チャウシェスク大統領は人民への科により処刑された。