モラル・ハザード対策のために、見える成果に対して報酬を支払ったり罰則を与える例、あるいは与えるべき例は数多い。自動車保険では、長期間無事故を続けていれば、次第に保険料を安くするという割引制度がある。これはそれまで無事故であったことに対する報酬であると受け取れがちだが、戦略的に考えるとあまり正しくない。無事故だったのは過去の事実であるのに対し、保険会社が、本当に興味があるは、将来その人が無理な運転をして事故を起こすかどうかである。
モラル・ハザードを解決するインセンティブ契約という観点から考え直すと、運転のし方が無茶かどうかは観測不能であるから、運転の安全さと強く連動する成果である「無事故」という見える成果に対して、将来保険料の割引という形で報酬を払うことを前もって約束いるのがミソであることがわかる。つまり、これから無事故だとしだいに保険料が安くなるということを前もってコミットしておくことが肝要で、無事故である人に予想外のご褒美をあげても意味がないのだ。
不幸にも支払不能に至り、破産を余儀なくされた人でも、破産法によって負債の清算ができる。大雑把に言ってしまえば、破産することで支払い不能になった債務は棒引きにすることができるのだから、破産とは借りた金を合法的に踏み倒す制度である。借りたものは返すのが当然というのが一般的な感情であるが、戦略的に考えると破産する権利を保障することには意味がある。
極端なケースとして、借金を返さなかった場合には、死をもって償う制度を考えてみればよい。この条件のもとで、資金を借り入れるのはよっぽど度胸のある人か、あるいは将来のリスクをまったく先読みできない人であろう。住宅ローンさえも怖くて組めなくなる。すなわち、運悪く破産しときにある程度許される制度を使わないと、資金を借り入れで現在何か事を起こすという経済のごく基本的な活動がストップしてしまうのである。
しかし、破産を許すというのはモラル・ハザードの源泉にもなる。これは破産の原因になるような行為は、貸し手には観測不能なことが多いからで、住宅ローンを組む人が初めからモラルに欠けているわけではもちろんない。したがって、モラル・ハザード防止のためには何らかの成果主義型のインセンティブ契約を盛り込む必要がある。金融機関が借り手の企業の業務内容の報告を逐一させたり、月々の支払いが少しでも滞った場合に、貸金の全額を回収すると契約書に書いたりするのも、借り手のへの罰則を見える成果に連動させることを前もってコミットすることで、モラル・ハザードの解消を目論んでいるのである。
ベンチャー企業を起こす起業家が資金を集めるときにも、モラル・ハザードの問題が生じる。企業の成功には、当初のビジネス構想も重要であるが、その構想のために起業家が適切な努力を惜しまないことがそれにもまして重要だからだ。しかし、起業家がどのように努力したのかは投資家には観測できない。そこで、ベンチャー企業への出資者は、その起業家に自己の資金を拠出させ、企業の利益と起業家の収入が連動するよう契約を結ぶのである。
同様な理由で、給与が会社の利益と連動していないと、会社の雇われ経営者にもモラル・ハザードの問題が生じる。経営者にその会社の株式を与えたり、あるいは株式を買い取る権利であるストック・オプションを与えるのもモラル・ハザード対策なのである。公共機関の仕事に無駄が多いのも、モラル・ハザードの一つである。これは、公務員には無駄を省いて節約するというインセンティブが弱いからであるが、この問題の源泉は公務員の仕事の成果を評価する作業も、さらにはその成果に報いて報酬を与えるという仕組みもないからであって、断じて公務員のモラルに問題を帰着してはならない。
この見地から天下りが問題になっているが、見方を変えれば天下りは公務員には数少ない成果主義の報酬であるから、天下りは公務員のためのインセンティブ契約として機能しえたのである。そういったインセンティブ契約が好ましいかどうかはまた別のもんだいではあるが。
住宅の賃貸借契約で敷金という制度がある。住宅の借り手には住宅をきれいに使うというインセンティブが弱い。そこで、家をきれいに保つという成果に対し、解約時に敷金を返すという形で報酬を与えるインセンティブ契約を結ぶというのが、敷金という制度の戦略的ポイントである。残念ながら家をきれいに保つという評価は客観的に測定できないため、敷金の変化率は貸し手の恣意によるケースが多い。しかし、もう一歩深く考えると、もし客観的に家のきれいさを測る方法に貸し手がコミットできるのならば、より多くの借り手が家を借りることに興味をもつはずである。これは、犬の散歩の例で、約束は犬が家に戻るかどうかという客観的事実に依存して報酬を払うようにすべきなのと同じである。言い換えれると、恣意的に敷金の返還を渋らないということにコミットできないため、賃貸住宅の魅力はかえって減少し、それだけ家賃も下げざるを得ないのだ。