香港の下町にある「重慶マンション」は、得体のしれない店がいっぱい入った一風変わった場所である。ここの客引きがうるさいのには閉口する。日本人とみるやすり寄ってきて、時計や宝石をはじめとして、日本の家電製品のコピーや海賊版DVDソフトなど、少なくとも日本に持ち込むのは非合法であろうと思われる品物を売りつけようとする。こちらが少しでも興味を示すと、あらゆる方法で、この品物がいかに買い得かを説明し始める。
これを日本で売られているものと同じ品質で、日本でこれを買えば倍の値段はするなどと言う具合だ。言い換えると、「買い得である」という言葉のシグナルを、買い手に対して意図的に送りつけるわけである。もちろんこんなところで時計や宝石を買ってはならないわけだが、その理由の一つは彼らの取り出す品物が、彼らの説明するとおりの品質を持つ品物であるかどうかわからないためでもある。
そもそも、自分の扱っている品物が悪いと宣伝する売り手がいるはずがないから、自分の品物がよいというセールストークを信頼するのは賢明ではない。品物がよい、お買い得であるという言葉だけでは、彼らの売っている品物の真の性質は何もわからないはずだ。つまり、シグナルを意図的に出せばそれが必ずだれにでも効果を持つという宣伝文句自体は、売り手が本当に良いものを引き渡すというコミットメントになっていない、ということになる。
相手にシグナルを送る戦略的理由は、自分がある行動にコミットしている、あるいはコミットしたいということを、相手に納得させたいからだ。売り手の場合は、自分の扱う商品の品質の高さにコミットしたいのである。画期的な電気製品を開発した会社を考えると、会社が実験を重ね、その製品のすばらしさを実証しているときでも、その製品を売り込むことはかなり容易ではない。
なぜなら、新製品のすばらしさは、会社にはすでに証明された事実であるかもしれないが、買い手にとってはそうではない。仮に新製品が会社の主張する機能を持っていたとしても、実際に使用するかどうかは、買い手にはわからない場合の方が多いであろう。事実、画期的な方法や製品は毎日のように生まれてはいるが、本当にすべてが買い手にとって価値のあるものではない。新しいデザインの服は毎年のように生まれるが、実際に着てみないと真の満足度はわかるものではない。
また、株の必勝法がこれまでいくつ生まれてきたであろうか。買い手は、画期的な方法が必ずしも画期的でないことを知っているのである。そのような不確実性は、買い手に買うことを躊躇させであろう。もしその製品が本当に買い手にとって価値のあるものであれば、会社はその品質を保証する、すなわち今から取引する新製品が宣伝通りの高品質を持っているということを直接コミットできれば、問題は解決するはずである。ところが、製品のすばらしさを知っているのは開発者だけなので、直接にコミットすることはできない。
こうした状況で有効なのは、例えば新製品の返品を認めることである。返品できるということは、自分が気にいらなかった場合に対する保険がかかっているということである。これを買い手の立場から見ると保険のかかった分の付加価値だけ、実質的に値下げが行われたことになるから、買うことに対するインセンティブが強くなる。しかし、戦略的観点からより重要なのはシグナルの効果だ。返品を認めるということは、もし新製品の品質に問題があれば多大なコストを引き受けるということである。
それにもかかわらず返品を認めるのは、新商品への自信の裏づけの表われにほかならない。単に新製品のすばらしさを述べるだけでは相手に対する信頼できるコミットメントにならないかもしれないが、返品を認めるというシグナルを送ることで、新製品の品質が高いことへのコミットメントを強くする効果があるのだ。また、返品を認めるというシグナルリング効果は、新製品を販売する場合だけではない。戦略的シグナリングとは、直接コミットメントをすることができないときに、間接的なシグナルを使って、信頼できる形で相手に自分のコミットメントを伝えようとする行為なのであるから、極端な場合、他店で購入した商品についても返品を認めるという戦略もあり得ることである。