いくら特定の行動をさせるインセンティブを与えたところで、相手にそれがわからなければ意味がない。せっかく空き缶のディポジット制を導入しても、それを人々に宣伝しないのでは意味がないし、特定の地域での駐車違反に対し特別の罰金を科すことを決めても、肝心のドライバーがそれを知らなければ意味がない。自分の思いどおりの服装をしてくれればあとでたっぷりご褒美をあげるつもりでも、相手の男性がそのご褒美に気づかなければ何も変わりはしないのである。
したがって、ある行動をとったらどのような利益が与えられるのかを、前もってお互いに確認し約束しあうことが戦略的に重要であることがわかる。この約束事のことをインセンティブ契約という。ビジネスの世界でいうと、契約を結ぶときに金銭の支払額を固定して決めてしまうのではなく、契約後に起こる事柄に依存させて支払額を調節するタイプの契約がインセンティブ契約の例である。
インセンティブ契約は、インセンティブの構造をわかりやすくして、そのようなインセンティブがあるということを具体的に相手にわからせるという効果をもつことに注意すべきである。プロ野球の選手が球団と契約するときに、あらかじめこれからのシーズン中のヒット数や勝ち星の目標を決めて、それを超えたときには年俸に上乗せしてボーナスを支払うと取り決めるのは、まさにインセンティブ契約である。
しかし考えて見ると、プロ野球の選手は毎年のように契約を改訂し、その時には前年度までの成績を考慮に入れた年俸が球団から示されるわけであるから、もともと頑張ってヒットを量産したりホームランを打ったりするインセンティブはたっぷりあったはずである。しかし問題は、球団からの提示はヒットを打ったり勝ち投手になったりした後でなされることである。
これでは、プレー中にした仕事がどれだけの見返りになって跳ね返ってくるかがはっきりしないから、実際にプレーしている時点での選手のインセンティブの強度はあいまいになってしまう。これに対してインセンティブ契約は、インセンティブを前もって明示的に確定できるメリットがあり、選手にとっても球団側にとっても、インセンティブによる誘因と結果が明確に把握できる。
企業の管理職あるいは労働者にも自社株を持たせるのは、企業の所有者である株主が興味を持って株の価値がそのまま会社で働く人々の利益に直接反映されるようにする工夫である。近年、成果主義の給与体系を導入する企業が増えている。これは仕事上の成果をより高く評価し給与に反映させようとするもので、成果を出すインセンティブを与えようとするインセンティブ契約である。
ここでのポイントも、インセンティブの構造を変えることだけではなく、成果を出すインセンティブを相手にはっきり認識させる点である。一般の勤労者の仕事上の成果は昇進のような形で報いられるから、成果を出すインセンティブは以前からあったはずだ。しかし、漠然とした将来の昇進可能性から生じるインセンティブの強度ははっきりしない。しかも、安定成長期に入った日本の企業の多くで、成果に対して昇進という形で実際に報いられる可能性は減ってきているし、何よりも勤労者はそのように感じているはずだ。
成果を何で測るかということが大きな問題になることはたしかではあるが、それにしても何らかの形で成果主義を持ち込むことなしに、勤労意欲を引き出すことはむずかしい。成果主義というシステムは労働者に勤労意欲を与えるインセンティブの体系として以前から存在していた。問題は、時代の流れとともに勤労の成果に対する報酬が見えにくくなってきこともあって、成果とインセンティブの関係が明確に認識できなくなってきたことにある。