リスクという言葉が日常会話で使われるようになったのは、いつ頃のことだったろうか。「リスク」という言葉の語源は英語のriskであろうが、wikipediaによると、「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)、危険に遭う可能性や損をする可能性を意味する概念」とする説があるが、工学や経済学などの分野によって定義はさまざまである。日本語ではハザード(英azard)とともに「危険性」などと訳されることもある。
現在の行動は、現在のみならず将来にわたって影響を及ぼす。将来のことを完全に知ることはできないから、これは現在の行動の帰結はいつでもある程度は不確実であることを意味する。つまり、現在の行動には何らかのリスクが伴うのであって、われわれは常にリスクにどのように対処するかという行動の決断を迫られているといえる。われわれの世の中で、絶対安全といったものは存在しない。
安全という言葉は、比較的リスクが少ないという意味であって、リスクがゼロになることはない。めったにないとはいえ、飛行機事故や自動車事故は起こるので、運悪くわれわれがそれに巻き込まれてしまうリスクはゼロではない。一方で、安全を求めるあまりリスクを全く負担できなくなるのも考えものである。リスクの軽減には費用のかかることが多いからである。
ある観光地で、親の目を離れて遊んでいた子供が不幸にも池に落ちて命を落としたとしよう。このとき、池の周りをフェンスで囲ってしまえば、確かに事故の起きるリスクは軽減されるであろう。しかし、フェンスを設けるにはコストがかかるし、フェンスで囲われた池は観光価値を著しく減じるであろう。フェンスを作るべきかどうかの決断は、事故が起こるリスクとこれらのコストの大小を比較してなされなければならない。
一時の感情に流されて、危険だからフェンスを作れという発想ではいけない。人名は尊いが、人を守るにもコストの感覚は必要である。不幸な自動車事故は後を絶たない。交通事故死をなくす絶対確実な方法は、車を廃止してしまうことであるが、おそらくそうすべきではない。それは、われわれの生活から車を取り去ってしまったときの不便さから生じるコストが、車によって時折人命が失われるというコストよりも大きいからである。
大切なのは、リスクの内容を理解し、それと上手に付き合うことである。冒す必要のないリスクをとらないというのがその第一歩である。しかし、リスクの内容を理解するといっても、それ自体そう簡単ではないので、それを回避するリスクの質量を数値化するのはもっとむずかしい。つまり、「危険に遭う可能性や損をする可能性」を理解するというのは、必ずしも合理的な尺度によって計測できるとは限らないということである。
例えば、東日本大震災後、沿岸部の防潮堤の高さを何メートルにすべきか、という議論は、化学的根拠によって決められそうなものだが、現実には、「海が見えなくなり景観を損ねる」「津波の高さは予測不可能なので、1センチでも高くしてほしい」といった議論になり、どちらの言い分も無視できないという状況になってしまう。さりとて、この議論が長引けば、話し合いをする時間の長さや逸失利益も増すことは明らかである。
それぞれの主張には、それなりの根拠はあるには違いないが、「利害」に対する考え方(視座)が異なるので、最終的には妥協するしか解決策はないのかもしれない。こうした場合でも、できるだけ情報を収集し、それを構造化することで戦略的分析をすることは可能である。それがいわゆる抽象化であり、ゲーム理論の真価であると理解すべきである。すなわち、抽象化とは単純化の前処理的なものであると考えれば、より適切な戦略が見つかる。