A誌が解雇戦略を採用した場合にもA誌がよい経済記事を書いた場合でも、データとして観測されるのは経済に関心のある読者がA誌を買うことになる。しかし前者の場合には、A誌の経済記事の質のよさが、経済に関心のある読者をひきつけたという説明は、不適切である。このように、戦略の分析は、観察されたデータを表面的にみて判断すると、問題の本質的な構造を見誤る可能性があることがわかる。
経済現象を深く理解するためには、経済主体の間の戦略的関係を考察しなければならない。観測されたデータには、しばしば戦略的意味が潜んでいるのであって、表面上の数字の大小の比較だけでは、経済の動きを完全に理解できない。これがすなわち、現代経済学が戦略的分析を積極的に取り入れてきた理由である。この議論では、B誌がA誌の記者が解雇されたと信じてくれさえすれば、A誌は無理をして解雇する必要はないことにも注意が必要である。
つまり、A誌が記者を解雇した事実よりも、むしろB誌がそれを信じているということ、さらにはそれをA誌がそれを知っていることが重要である。逆に、せっかく記者を解雇しても、B誌のほうがその事実に気づかなかったり、解雇された記者が有能であるかどうかわからなかったり、あるいはその解雇がA誌の政治記事に対する読者の減少を意味することがはっきりしなかったりすると、行動の確約をめざしたせっかくの解雇戦略も不発に終わる可能性があるが、これは確約の信頼性が弱いためである。
(2) 抽象化と戦略的分析このように、戦略分析においては、何が起こったか、あるいは起こるかという事実関係だけではなく、ある行動がとられたかどうかの情報、あるいはそれが相手に観察されるかどうかの情報、またどのように理解されるか、信頼されるかという情報の構造が重要な意味をもつことがわかる。情報の問題を考察することで、戦略的分析はより一層深いものになる。さまざまな経済現象が、このような情報の問題として理解できるのだ。
また、現実の世界の戦略的環境は遥かに複雑であり、一方でこれまで見てきた雑誌の例は極度に単純である。チェスや囲碁のようなルールのはっきりしたゲームならばまだしも、現実の出版社のビジネス環境が、このような単純な分析によって完全に記述できるわけではないし、もとよりそんなことを主張する意図もない。ゲーム理論は、われわれの仕事や日常生活での悩みや問題を「完全に」解決するツールではない。
それは、ここで用いたような例が単純すぎるために複雑な環境に対応しきれないからではない。そもそも、現実の環境を、どのような方法にせよ、完全に記述することは不可能である。例えば、雑誌社のとりうる戦略の記述を詳細に区分し直して、2つではなく1000に分類したとしても、現実の複雑さにははるかに及ばず、単なる徒労に終わるであろう。ゲーム理論のどの専門書をひもといても、現状に完全に対応した完璧な意思決定のモデルなど作れるようにはならないのだ。
社会科学におけるゲーム理論は、現実の完全な記述を目的としたものではなく、逆に複雑な現実の環境を抽象化および単純化することにより、これらの背後にある戦略的関係を明らかにし、その結果として本来複雑な意思決定の過程や行動基準の本質的部分を解明することを目的としているのである。言い換えると、社会経済現象を、抽象化された分析対象があるルールに従ってゲームをした結果であるように理解できるというのが、社会科学におけるゲーム理論の立場である。
ゲーム理論は、囲碁将棋などの具体的なゲームの必勝法の解明にも役立つが、社会科学でのゲーム理論の目的はそこにあるのではない。重要なのは戦略的思考の原則に即して考えたときに、現実問題がどのように理解できるか、ということなのである。