この意味では消費者という存在は、人間が欲望を持つというよりも、欲望が抑えせれてはじめて人間=消費者という存在の形を取ると考えられている。ドゥルーズとガタリは、上記の考え方を資本主義にも適用している。資本は「まさしく資本家の器官なき身体」として捉えられる。資本という根源的な欲求の形は貨幣という存在を得てはじめて自己生成される。
「資本とは、不毛なる貨幣に対して、(貨幣が貨幣を生む生産的形態)を付け加えることになるものなのである。資本は剰余価値を生産し、みずから発芽して、宇宙の端まで枝を広げていくのだ」。つまり資本は貨幣を領有してのち資本主義として増殖していくことになる。「資本主義は、自分の極限に向かう傾向に突き進むものであると同時に、みずからこの傾向を妨げ抑制することをやめないものであるからである。
以上のような考え方を考慮に入れると、人間が欲望に従属するというよりも、欲望がむしろ人間的なありかたを規定していることになる。よく、欲望に負けることが道徳的に非難されたり、あるいは欲望を「操作」することが社会的に批判されることがあるが、そもそも人間そのものがこうした欲望・欲求の所産だという考える視点もあることを考慮に入れるべきであろう。
ここで考察した欲望や欲求についての3つの考え方のうち、第一の「欠乏としての欲望」我々が一般常識として認識している考え方なので抵抗なく胸に落ちる。二番目の「媒介としての欲望」は、欲望の主体は自分だけではなく他者の欲求に媒介されていることがあるという考え方であるが、これも社会的影響力などを考えると共感できる点は大いにある。
そして第三番目の「根源としての欲望」という考え方は、これまでの常識ともいえる欠乏としての欲望という考え方を根底から覆すものであり、にわかには受け入れがたいかも知れない。しかし、この考え方に対して異を唱えるだけの根拠を示すことができない以上、欲望そのものの原初的な形態「器官なき身体」を受け入れる姿勢も必要なのかもしれない。