これまで述べた二つの考え方は、詳しく解説を受けると、われわれの日常的消費スタイルと矛盾することのないもので、これまで述べてきた「心理的アンバランス、生理的アンバランスを解消したいという欲求」ともほぼ整合するものであるが、これから述べる第三番目の観点は、「根源としての欲望」というもので、タイトルからその内容を予測できない。
この考え方は、人間の存在に先立って、根源的な欲望というものがあり、それが様々に分かれてはじめて欲求として顕在化するというものである。この考え方を代表するのはフランスの哲学者ドゥルーズたちである。「いたるところに、生産する諸機械が、つまり類的生命そのものが存在するものである。私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もはやここでは何の意味ももたたないのだ。」(ドゥルーズとガタリ)。
ドゥルーズとガタリは、人間がいて彼(女)が欲求をもつという考えの代わりに、欲望という根源的な存在があると考える。それが「器官なき身体」である。「器官なき身体」とは、いわば欲望そのものの原初的な形態と考えればよい。しかし器官なき身体そのものは何も生み出さない。「器官なき身体は、非生産的なものである。それが生み出されるまさにその場所に存在するものなのだ」。そして欲望はあたかも細胞が分裂して増殖するように自分の力で分裂しながら姿を変えていく。
こうした考え方に立てば、欠如としての欲望という考え方は批判されることになる。この考え方(観念的考え方)は、まず何よりも、欲望を欠如として、あるいは対象の欠如として、あるいは実在する対象の欠如として規定する考え方」である。こうした観念論的考え方の代表はロイドの唱えた精神分析である。オィディプス・コンプレックスという観念によれば、我々が感じる欲望は親や育てられた過程において我々が負った心の傷が内部化され抑圧されて生じたものとされる。こうした考え方は神話に過ぎない。「欲望は何ものをも欠如していない」。
器官なき身体は根源的かつ単一の欲望の形であり、あらゆるエネルギー源として人間の裏側に偏在しているが、それ自体は表に現れることができない(このため「器官なき」と呼ばれる)。それが人間の身体の世界あるいは組織などの「器官」と連結され「欲望する機械」となる。つまり欲望は何らかの人間の器官と連結してはじめて欲望として働きを始める。例えば、人間の胃と連結して欲望は食欲となってあらわれる。器官なき身体は欲望する機械に「折り重なり、この欲望する生産を引きつけ、この欲望する生産を引きつけ(吸引し)、これを自分ものにする(領有する)。