広辞苑によると、欲望「ほしがること。また、欲しいと思う心。不足を感じてこれを満たそうと望む心」とあり、欲求「ほしがりもとめること。欲望を満たすために要求すること。動物や人間を行動に駆り立てるもととなる緊張状態」と記述されている。この説明から読み取れることは、「欲望」は抽象的であるが「欲求」はより具体性が強い感じである。
ところで、人間は何らかの欲求を持っている存在であることは確かだが、なぜ人間は欲求をもつのだろうか。何か欲しいものがあるから欲求が発生するのだろうか。それとも、何らかの問題があるために人間は欲求を刺激されるのだろうか。この疑問は、鶏がさきか、卵が先かという問題とはちょっと違うようでもあるが、似ている面もあるような気もする。
欲望や欲求については、3つの考え方があるようだ。まず一つは、人間には何か欲求があり、それが対象によって喚起される、あるいは、欠乏があるときに欲求が現実化するという考え方である。こうした考え方は「欠乏としての欲望」とでも呼ぶべきもので、「アンバランス」にも合致している。つまり、欲求は問題の解決としての過程として捉えられる。
二つ目は、「媒介としての欲望」という考え方である。これは、欲望とは他者を媒介として成立するものであるという見解である。「一見すると、直線に見える欲望の上には、主体と対象に同時に光を放射している媒体が存在するものである(ネル・ジラール)」。人間の欲望は一見すると自分が主体的に欲求しているように見えても、実はそれは他者の欲求に媒介されていることがあるというのである。
ジラールはこうした欲求を「欲望の三角形」と呼んでいる。三角形とは消費者という主体と欲求される対象、それらを「媒介」する他者の三者のことである。人の欲求を理解するのが難しいのは、このように一見すると消費者が自発的に欲求しているようにみえて、実は、それが他者の消費スタイルの模倣であることがあるからである。ジラールはこうした媒介作用を生み出す欲望を第二の欲望と呼んでいる。
そして、消費者の自発的な第一欲望と、媒介されて生み出される第二欲望とは競合する関係にある。つまり、人間の欲望は一見すると自然的・自発的に見えるが、実は社会的欲望である場合がある。この考え方は、自分自身に当てはめてみても、納得できるものであり、自分独自の欲望よりも、ネットで流行を調べるなどという行動はその証拠でもある。