制約により追い込むことの効果

 

 日ごろ忙しく仕事をしているものにとって、もう少し時間があれば、「もう少しクリエイティブなものが生み出せるのに」などと、つい考えてしまいがちである。しかし、それは単なる言い訳に過ぎないこともよく知っている。事実、提出期限や字数制限、あらかじめ定められたフォーマットがあると、窮屈な面もあるが、むしろ仕事がはかどることもある。

 一方、たまたま暇ができると、その時こそ今まで温めていた構想を具体化するために何らかのアクションを起こすべきなのに、そうした時に限って、時間を浪費してしまうことがよくある。「忙中閑あり」とはよく言ったもので、少し忙しいと感じているときこそ、何とか暇を見つけて、効率的な行動をとるという経験は、誰にでもあるのではないだろうか。

 しかし、クリエイティブな成果を目指して取り組む場合、まず、何が問題なのかを明確に把握する必要があるため、それなりの情報収集や分析を行わななければならないから、かなりの時間をかけて仮説を立てなければならない。そして、大抵の場合はそうした営みは成果物である文章などには表現されることはない。この時間消費は正直に言って辛い。

 クリエイティブな成果であるかどうかは、他人が評価することなので何とも言えないが、私の場合は、情報の収集と分析にかなりの時間を要し、これらを組み合わせて、仮説を作るのに制約条件の半分を費やしてしまう。もっとスマートな方法があるのかもしれないが、一気に思いの丈をぶつけるだけでは、客観性を失ってしまうという恐怖感にさいなまれる。

 それでも、全く制約がない場合は、集中力を欠いてしまい、漠然とした仮説が浮かんでは消え、焦点が定まらないものになってしまう。若いころは、自分自らに何らかの制約を課して、仕事をこなしたという経験もあるが、結果としてはその方がよかったような気がしている。時間の配分を念頭において仕事に挑むのも、「クリエイティブ」の条件である。

 例えば、入学試験や入社試験などを考えてみても、時間の制約や環境の制約、出題される問題の内容などの制約がある。こうした制約があることによって、クリエイティブな発想力の有無が測定できるわけであり、何の制約もなければ、クリエイティブな発想であるかどうかの判定もできないことになる。制約は縛りであると同時にガイドラインでもある。