確かに世の中には、クリエイティブだと称される人は存在するし、とても真似ができないと思うほど創造力豊かだと感心させられる人がいる。しかし、クリエイティブなタイプ人は、生まれつきそうした才能を持って生まれてきたのか、それとも、何か特別な訓練を積んできたために、想像力が身に着いたのかは詮索せず、とにかく才能があると評価する。
人はだれでも、他人よりも才能があるという「うぬぼれ心」があるものであるが、とてもかなわないと思う人が現れると、いとも簡単にひれ伏してしまう。それは悲しいことであるはずなのだが、少なくとも見栄を張るよりはましなのかもしれない。それに、自分は少数派でないことを確信すれば、見栄を張って恥をかくよりもましだと思う気持ちもある。
それに、数少ないクリエイティブな人の傍にいることで、自分には、想像力を必要とする難しい仕事が回ってこないことに、ある種のメリットを感じてしまうこともあるかもしれない。つまり、クリエイティブな人ではない自分は、普通の人なので特に恥じ入ることもなく、おまけに、難しい仕事はクリエイティブな人が引き受けてくれるので便利である。
もちろん、そうした人ばかりではないが、その他大勢の中に身を置くことを嫌い、クリエイティブな仕事に対して、果敢に挑戦する人もいるはずである。もしかすると、こうしたチャレンジャーの中からクリエイティターが育つのかもしれない。現段階での研究では、遺伝的特性が認められていない以上、そう考える方が自然であるといえるかも知れない。
それにもかかわらず、アメリカでは、多くの組織の中で、「クリエイティブ・タイプ」と「スーツ・タイプ」がはっきり分かれていて、スーツ・タイプは、会計や財務、営業、経営管理など従来の業務を担当し、クリエイティブ・タイプは、マーケティング、宣伝、デザインなどの部署にいるという。そして、彼らはめったにスーツを着ないというのである。
私の常識では、仕事をタイプ別に分けることは理解できるが、どんな仕事にもクリエイティブな部分があり、「知性、勤勉性、正確さ」と「発明、想像、独創性、才能」をあえて異なる能力と決めつける意味など無いように思われる。このようにタイトに考えることで、クリエイティブな能力が育とうとしている芽を組織的に摘みとってしまう弊害を感じる。