人は皆作り話が好きである。それは、小説がよく読まれていることからも窺い知ることができる。しかし、「事実は小説よりも奇なりと」という諺もあるので、少し疑問も残るところであるが、ここでいう「事実」とは必ずしも「真実」ではないところが「奇なる」ところなのかもしれない。つまり、真実が少し脚色されて事実になっていることが肝である。
夢に見たことを、ストーリーにしてとうとうと語る人をよく見かけるが、この人は、たぶん嘘をついているという自覚はないのかもしれないが、科学的に証明されている「夢の正体」からすると、かなり矛盾を感じる。本人への気遣いもあり、大抵の人は敢えて否定しないことが多いのではないだろうか。もし機会があれば本人に聞いてみたい気もする。
こうした現象は、夢の世界に限ったことではない。コンサルティングの仕事は、その性質上、よく人を説得するような場面が多いが、クライアントがいつの間にか私の論法で私を逆に説得することがある。そんな時、「それは私が最初に社長に言ったことですね」と言いたくなることがある。しかし、本人は自分が昔から持っていた考えだと信じ込んでいる。
これが「作話」の正体ではないだろうか。画期的なアイディアがひらめいたというような場合、その原因がはっきりしない行動について後から話す際、人は往々にして無意識に説明をでっちあげて、裏づけをする。これを心理学の用語で「作話」というのだという。歴史に残るようなアイディアや発明には、その誕生秘話がつきものだが正体はこれである。
もっとも、コミュニケーションのツールとして考えれば、多少嘘が混じっていたとしても、その方がはるかに潤いのあるものになるという利点もある。ただ、イノベーションを起こす方法を理解する上で、「ひらめくこと」を、天下り式に突然どこからともなくひらめきの瞬間が訪れると考えるのは明らかに誤りであり、その背後の営みを忘れてはならない。
つまり、クリエイティブな発想やアイディアは、十分な準備によって培養の局面を迎えるからこそ、正しい解決策にたどり着けるわけである。そればかりではなく、評価と精錬を行わなければ、アイディアを立証することはできず、今日のような社会は決して生まれなかったはずである。一連のプロセスを踏むことの重要性を再認識しなければならない。