過去と現在を結ぶ延長線上に「将来」があると述べたが、これにはかなり反論がありそうだ。例えば、「昨年3月に起きた東日本大震災を過去と現在を結ぶ延長線上で予測できなかったではないか。」というような反論である。これには、返す言葉もないのが現状であるが、それが真実であるとすれば、あの震災を教訓に将来を予測することも意味がない。
ところが、南海トラフトの活動などの議論がより活発になっているところを見ると、やはり、予測の必要性を再認識するとともに、その予測は過去の経験と現在生じている現象を分析して将来を予測することの意味を誰もが認めているからに相違ない。ただ、予測モデルの開発が思うように進まないため、予測の誤差が大きいことは確かである。
売上高の予測などのように、時系列データが完備されている場合は、予測モデルを構築できる可能性が高いので、予測と実績の誤差が生じる範囲を徐々に狭めていくことは可能であるが、あの千年に一度とも言われる大震災発生時期、被害の程度などを予測するに十分なモデルが開発されていないのは、ある程度やむを得ないことかもしれない。
いわば、こうした科学的に未発達の状況の下では、手も足も出ないのかというと、現実には職人の勘などがもの言うこともあり得る。例えば、数学的に微分積分の世界でも解決が難しい特殊なカーブを寸分の狂いもなく手作業でやってのける。こうしたことが現実に起こっていることが、勘と経験による予測もいまだ健在であることの理由かもしれない。
我々は、一般的に科学的技術を駆使した解決法とそれ以外の方法を区別することを常套手段としているが、実は、勘や経験と科学は表裏一体のものであり、勘や経験から学んだ事実を積み上げ体系化したものが科学的なものであるという関係にある。これは、ちょうど学歴を積んだ息子が親の勘と経験をバカにするようなもので、傍目には滑稽でさえある。
勘と経験による予測方法の代表格といえば陪審法や草の根法などであろうが、これらは、デルファイ法やシナリオ法などを含めて体系化されているところを見ると、統計的な方法や計量経済的な方法と補完関係にあると考えるのが妥当である。つまり、計画策定のためには予測は不可欠だが、データが不足しているという状態は常にあり得るからである。
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