自分の生き方を見つけられる人

 人の能力はどこに潜んでいて、何時どんな時にどんなタイミングで開花するかは誰にもわからない。学生時代に先生から落ちこぼれ人間であるというレッテルをはられ、悩んだ挙句、やがて自分もそのことに納得してしまい、努力することをあきらめてしまったような人でも、あるきっかけで自分の生き甲斐を見つけ大成した人も沢山いる。
 これを運命論で説明すれば、「人生万事塞翁が馬」ということにもなるのだろうが、見方を変えれば、「座して死を待つ姿勢」とも受け取れる。これらは、ものごとはすべからく二面性をもっているということで、そのときどきの状況により使い分けられるから価値があるのだが、人によってはより混迷を深めるだけで何のヒントにもならないこともある。
 一般的な言い方をすれば、「頑張る人」より「頑張らない人」を称賛することはあり得ないが、頑張らなかった人の方が運に恵まれたりすると、今まで頑張ったことが「運」から見放される行動だったのではないか?そんな思いが頭をよぎったとしても、それを否定する科学的な根拠を示すことはできないが、そのまま落ち込む人はそう多くはない。
 結果を出す人というのは、確かに諦めないで最後までや抜くという性格の人である。しかし、諦めないで頑張っても、オリンピックや甲子園で結果が出せるとは限らないことは誰でも知っている。それでも、初志を貫徹できる人は世の中から称えられるというのは、頑張ること自体に人間らしさやある種の美しさを求めるからなのだろう。
 こうした「人間らしさ」という極めてあいまいな物差しで測ることは、ギスギスした現代社会でも脈々と生き続けている。そして、企業の経営活動はこれを守り育てることを目指しているはずであるが、現実の社会で生き抜いていくためには殆ど役に立たない。多少非人間的でも、勝ちぬいて行ける能力が高く評価されるのが世の中のルールである。
 このルールを絶対認めないという生き方だってないわけではないが、自分が勝ち馬に乗っている時は、このルールを容認していながら、一旦マイナスな面に遭遇すると、途端に世間を批判しはじめ、自分は被害者であるかのように論理を組み立てて、世捨て人さながらの人生を歩み出す。どちらのタイプも使える社員にはなりにくい存在である。