コンテクストの統合

 昔の諺に、「ところ変われば品変わる」とか「郷に入れば郷に従え」というのがある。これこそがコンテクストそのものであり、集団の文化や風俗といったものが、独特の行動規範や思考様式を形成している。このコンテクストを権力や論理で抑制し、コンフリクトを解消しようとすれば、必ず思わぬところに大きなひずみが生じてしまう。
 ファシリテーターが、異なったコンテクストの中で形成されているコンテンツを尊重しながら、望ましい結論に導くためにはコンテクストを統合化する連結ピンの役割を担わなければならない。連結ピンとは異なったまとまり同士を結びつけ、お互いの機能を生かしながら相乗的に機能させる場合の柔軟なクランプのことである。 
 連結ピンといえば、リカートの有名な理論で、他の組織との間に生じやすいコンフリクトを克服し、全体最適のためにそれぞれの組織のエゴを封じ込めることを目指して、調整役とする管理者をそう呼んでいることが思い出される。この場合の連結ピンは、まさしく異なるコンテクストを統合するファシリテーターと役割は同じである。
 コンテクストを統合することで、コンフリクトの解消を目指そうとすれば、自分自身の思考枠組を転換する覚悟がなければ、調整する力が発揮できない。つまり、自分の考え方が一番という頑なな姿勢を打ち砕かなければ、異なったコンテクストの共通点を見出すことは困難であるだろうし、それでは一片の説得力も感じられないであろう。
 国会において議長に選出されれば、党派を超えてファシリテーションに奔走しなければならないため、党員としての活動が制限されるのはそうした意味合いが強いからと考えられるが、実際には自分の信念を打ち砕いてまで、議長の職務を全うしようしている姿は見受けられない。言い換えればファシリテーターとしての役割を十分に果たしていない。
 ファシリテーターが連結ピンとして、コンテクストの共有化を目指すのであれば、異なったコンテクスト間の共通している部分にピンを打ち込み、これを連結ピンにするか、あるいは異なったコンテクストをもう一段高い視点から俯瞰し、統合化する糸口を見つけ、統合化した新しいコンテクストに育てるのかがファシリテーターの役割である。