目的の違いにより起こるコンフリクト

 コンフリクトが生じることは、日常生活においても枚挙にいとまがないほど多いことは、いまさら説明するまでもないことであるが、その原因は実にさまざまであり、お互いの主張は、一見どちらも正論のようにみえて落とし所が見つからない。そこで先人が思いつた解決策が民主主義なのかもしれないが、これとても抜本的な解決策とは言い難い。
 民主主義と言えば多数決であり、お互いの立場を主張し合った結果、多数決でどちらの主張を採用するかを合理的に決めるというやり方である。ルールとしてはまさしく民主主義の名に値するかもしれないが、このやり方の結果は所詮妥協の産物でしかなく、十分に情報を共有しあって議論した結果ではないことが多いと感じている。
 だからと言って、これ以上のルールを見つけ出すことはできない以上、このルールの欠点を批判しているだけでは何も始まらない。ただ、このルールは本来、民主主義のもとにおける殿下の宝刀であるべきものであり、これを濫用することは許されないはずなのだが、どこからが濫用に当たるかを判定するルールも存在していない。
 ファシリテーターの役割は、こうした民主主義のルールに果敢に挑戦することではなく、目的が何時しか手段になってしまっていることを諭すことである。例えば、原子力の平和利用の問題を議論する場合、原子力の持つエネルギーを利用することでどんな目的を果たそうとしているのかという、明確な目的の設定についてまず議論すべきである。
 しかし、そんなことは今や誰でも知っていることであり、その目的が議論に参加している人々に十分共有されているとは思えない。それは、その目的自体が、もっと上位の目的を達成するための手段に過ぎないことを忘れてしまっている。つまり、その目的が発電などの平和利用なのか、殺戮の手段としての利用なのかを議論しても結論は出るはずがない。
 こうした場合の目的の違いは、現実問題としては決定的な溝になり、利害関係や力関係による多数決で解決するしかないが、これらはいずれも最終な人類の目的ではなく、ある共通の目的を達成するための手段に過ぎない。お互いの最終目的が何であるかを共通の言語に翻訳して語りかけることが最も望ましい結論に導くことに繋がる。