推理力はどうして研くか

 推定といえば、有名なのがフェルミ推定である。この理論は奥が深くロジカルシンキングや仮説思考など多方面に応用されているが、元々我々は、推理することを常として生活してきたと言えなくもないように思える。しかし、近年のようにインターネットが発達してくると、あまり推理力を必要としなくても足りることが多くなってきた。
 つい先日も、プロジェクトを組んである企業の経営診断をすることになり、私が分析した経営分析表をメールで各メンバーに送信することになった。私はある意図をもって、診断先企業の業種や業態を伏せて分析表を送信したが、案の定というべきか、若いメンバーからこの企業の業種はなんですかという問い合わせが殺到した。
 わたしが意図したことは、特に業種や業態を明示しなくても、製造原価報告書がないことから、製造業ではないことは一目瞭然のことに気がついてもらいたかったのである。そして、そこに気がつけば、従業員一人当たりの売上高から、卸売業か小売業かサービス業かも推理できるはずだと考えたのであるが、そこに着眼しメンバーはいなかった。
 はなはだしいメンバーは、製造業ではないことが解っても、業種は特定できないのではないかという反論さえあったことに驚いた。分析表には、従業員一人当たりの売上高ばかりではなく、付加価値額も表示されているので、従業員数の割に売上が大きければ、卸売業であることに気づき、総利益率の大小を見れば、そのことを確信できると思った。
 高学歴のメンバーにしてこのありさまである。考える力が退化してしまったとまでは言えないが、苦労して見つけ出すよりも、もっとスマートに回答を見つけ出そうとしているうちに、推理力や仮説思考力が萎えてしまったためではないか思われ、逆に少し彼らに対して同情的になってしまったことを寂しく感じたことがある。
 推理とは、あてずっぽうではないが、かといって必ずしも論理的である必要もない。ただし、演繹的に事実を積み重ねていき、ある前提とこれに基づく何らかの結論を見つけ出すことである。したがって、前提条件や積算方法を間違えると、実態とはかなりかけ離れた結論に達してしまうこともあるなど、滑稽な面もあることは否めない。