夢の実現行きのバスに乗り合わせることから始まる

 先日あるサークルのOB会に久しぶりで参加した。話は当然サークル結成時の苦労話に華が咲いたわけですが、今にして思えば、青春の1ページに過ぎない出来事だったのですが、当時のメンバーはそれなりに誇りをもっており、その後、今日まで歩んできた人生の糧になっていると口々に話していたのが妙に印象に残った。
 やめようと思ったことはなかったのかと質問してみると、殆どの人がありましたと答える。どうしてそのとき止めなかったのかと重ねて聞くと、同僚の下向きな努力とリーダーの価値観に反旗を翻すだけの勇気もなかったし、他にこれといった選択肢も見つからなかったというのである。少し意地悪に言えば、惰性で続けたとも解釈できる。
 わたしの場合もそうであるが、こうした迷いが生じたとき、思い切ってサークルから脱落することで特に損をすることはなく、むしろ、踏みとどまることの方がよっぽど辛いと思いながら継続する道を選んでしまう。しかし、共通しているのは、「夢と冒険にみちた事柄」が大好きである連中の集団であるということである。
 実は、この「夢と冒険にみちた事柄」というのは、広辞苑にでていた「ロマン」の意味の一つなのである。夢とロマンなどと並列して使われることから、それぞれ別のものなのかもしれないが内容はよく似ている。違うとすれば、「ロマン」には「夢」のような具体的形がなく、より漠然としているといことかもしれない。
 しかし、メンバーの求心力の源になっているのは「ロマン」のようなものである可能性が高いのではないだろうか。前述のOB会のメンバーも、そういわれてみれば「ロマン」とまではいかないまでも、そういうものに対する憧れが心の支えになっていたことは確かだったような気がすると当時を振り返っている。
 夢の実現に向かっての挑戦は、大なり小なりこうした挫折との背中合わせで進行するものである。したがって、「夢の共有化」よりももっと強烈な精神(そうせざるを得ない必然性)がなければやりとうせない何かがある。これは理屈や打算では説明できないものであり、そのプロジェクトの空気を一緒に吸い込んで見なければ理解できない。