人はよく夢は大きいほどよいなどという。この場合の「夢」の意味は、実現性は薄いかもしれないが、「目標」を高くもつことで自分を叱咤激励し、諦めずに突き進むことでコンピテンシーを高めれば、悔いのない人生が送れるはずだというストーリーに依拠している。意外と説得力がある言い回しだが現実はどうなのだろうか。
親が子供に向かって、こうした激励をするのはある意味で当然かもしれないが、親の成功体験から発せられた言葉かどうかとなると、中身は微妙に異なるような気がする。世の中の親には、「勉強しないとお父さんのようになっちゃうよ!」などと父親のまえで言い放つ人もいるくらいだ。これに反論しない父親は、その通りと納得しているのだろうか。
もちろん、そうしたケースもあり得るであろうが、大きい夢をもち過ぎたことが原因で、挫折感を味わい、奈落の底に突き落とされ、今日に至っているということはないのだろうか。その苦い経験を本音で伝えられない父親にしてみれば、「大きな夢をもて」とも「夢を大きく持ちすぎるな」とも、子供にはいにくいであろう。
広辞苑によると、「夢」とは、「?睡眠中にもつ非現実的な錯覚または幻覚。多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚・運動感覚に関係するものもある。?はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。?空想的な願望。心のまよい。迷夢。?将来実現したい願い。理想。」という意味だそうである。実に多様な使われ方がされているものである。
ここでの議論では、?の意味に近いものとして使われているといってよいであろうが、前述のように、この「夢」を共有するにはなんらかの意味で、コンピテンシーのグレードが同じでなければ、同床異夢ということになるのではないだろうか。つまり、夢の実現に手の届くところまで到達しているものにとっては、それはもはや夢ではないからだ。
現実の社会を見ても、プロジェクトのメンバーが必ずしも夢を共有しているとは限らない。しかし、そうしたプロジェクトチームが、偉業を成し遂げことはよくあることである。こうした場合に強く感じるのは、「夢の共有」そのものよりも、むしろ、「夢と冒険にみちた事柄」が大好きである連中の集団であると感じることが多い。
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