高齢者はもっと自己主張すべきである

 総付加価値額と付加価値生産性の関係は、上述のように労働の対価として支払われる総人件費を、プラスに評価するかマイナスに見るかによって大きく上下に振れる。我々が最も望んでいるのは当然その均衡であるから、これをどうバランスさせるかが経営者の知恵であるが、例え均衡点が見つからなくても、これを見つける努力を続けるしかない。
 子供の頃によく見かけた風景であるが、母親が子供に向かって、「自分より勉強のでき子と遊びなさい」といっていたのを思い出す。子供は賢明でこの教えを無視したので立派な大人になったが、もしも、当時どこの母親もよく口にしたこの教えを忠実に実行していたら、結局誰とも遊べないことになり、寂しい人生になっていたに違いない。
 市場の拡大が見込めなければ、企業は付加価値生産性を向上させるしかないという考え方は、ある種の合理性はあるものの、この連鎖は最後に行き場所がなくなることにも繋がる。それを承知の上で突き進むのは、自分(自社)が付加価値生産性を向上させても、他社は追従しないということを前提にしていることになる。
 最も、昨今の業態開発合戦を見ていると、先にやらなければ飲み込まれてしまうので、座して死を待つよりも打って出る戦略を採らざるを得なかったという側面もある。しかし、目の前にある食料を無節操に食いあさるだけで、土壌を育て種をまくことを忘れてしまったのでは、ほんの一時期生き延びたに過ぎないのではないだろうか。
 市場に復元力を残しておくことが企業経営の大原則である以上、その原動力となる生活者に安心と安全を保証することこそ、循環型社会のモデルであるべきだ。具体的には、雇用ないし起業の機会を増幅させ、顧客機能の拡大を図ることである。企業は社会的責任を果たすというよりは、これを実行する権利を保有していることを再認識すべきである。
 高齢者の立場で考えると、企業の対応に一喜一憂するだけでなく、もっと自己主張することで存在感をアピールすべきである。つまり、高齢者も付加価値生産性を支えるための働く権利を持っていると同時に消費を支える義務を負っているからである。このように考えれば、高齢化社会は決して脅威だけではないはずである。