高齢者自身にもまだやり残した仕事がある

 教育問題や若者の就業意識の低下現象などばかりではなく、あらゆる面で目を覆うような社会現象が生じている。テレビなどの解説者に言わせると、最もらしい処方箋は多いものの、誰がどのような手順で推進するのか、という具体性に欠けているような気がしてならないのだが、そう感じること自体が第三者的で無責任なのかもしれない。
 高齢者というよりも、世の中を牽引してきた全ての人々は、成し遂げた成果のかげで犠牲になったものに思いをはせる義務がある。平たく言えば、築き上げた反映だけを誇張するだけでなく、失われたものや壊れたもの、新たに生まれた弊害などの大きさを点検して、収支決算をしなければならないのではないかということである。
 そうした意味でツケを残したまま去るのは無責任である。年金制度が社会的親孝行であるなら、ツケを子供に残さないのは最小限度の礼儀であるから、高齢者には荒廃した環境を整備し直すという気概が求められているとも考えられるし、「平均寿命の延びはこういうことに活用しなさい」という天の声なのかもしれない。
 このように考えると、企業活動も多様なチャネルが考えられ、付加価値生産性重視の発想から一歩踏み出したデマーケティング活動に取り組むことなども、CSR(企業の社会的責任)を果たす上で意義があるかもしれない。具体的には、○○を禁止する運動とか、コストが高くても社会貢献商品に拘った生産体制を貫くなどである。
 高齢者がこうした草の根レベルの活動に立ち上がることで、まだまだひと役担える喜びを感じることができれば、現在のような重苦しい雰囲気も一掃できるほか、若年者にもその心意気が伝わり、生きた社会教育を体験させることにも繋がる。スローライフのモデルづくりをすることで豊かさのツケを払うのも悪くはない。
 こうした社会を創りだすための原動力は企業家精神の中に潜んでいる。企業が新しい価値観を創造し社会に提案することで、派生的にまた新たな価値が生まれるという現象はこれまで何度も経験してきたことなので、学習効果はここでも生かされることは確実である。ましてや、その主役を演じるのが高齢者であれば尚のことである。