インセンティブ{その1 人の行動を自分好みに変える}

 

インセンティブ(incentive)とは、「動機づけ」とか「誘因」と訳されことが多い。「奨励策」と訳されることもある。インセンティブとは、ある主体から特定の行動を引き出すためのエサ(あるいは罰則)や、そのエサが与えられる仕組みを指す。個人がある行動をとるためには何らかの理由(動機づけ)があるわけだが、その理由に当たるものと考えてよい。

社会経済現象を理解するためには、各個人が直面するインセンティブの構造を考えなければ、その本質的な理解は得られないといっても過言ではない。このように言うとたいそう大げさに聞こえるかもしれないが、実はインセンティブの構造を考えるということは、われわれが日常的に経験しかつ実行しているのだ。むしろ、たいていの人はその構造を明らかにすることを楽しみにしているといってもよい。推理小説では、犯人の捜査はまず犯人の動機を明らかにすることからはじめるのが定石になっている。

誰か人が殺されたとすれば、殺される理由があるはずで、その理由から割り出して怪しい人を探すわけだ。「インセンティブ」という言葉を使って言い換えれば、犯人には殺人をするインセンティブがあったはずだから、そのようなインセンティブのある人は誰だったのかを巡って捜査がすすむということになる。サスペンスドラマでも、事件に関係している人々の間に微妙な利害関係があって、犯罪の動機が明らかになったとき、なるほどと思えるようなものが面白い。

言い換えれば、インセンティブの構造が込み入っているものほど面白いし、ありきたりの動機ではがっかりさせられてしまう。「刑事コロンボ」シリーズは、このあたりを巧みに利用している。ドラマの開始5分で犯人自体は解ってしまうのであるが、刑事コロンボが犯人が直面していた微妙なインセンティブの構造を、しだいに明らかにしていくところが、このドラマのまさに魅力になっている。

しかし、動機づけは通常、モチベーション(motivation)と訳されている。モチベーションは心理学で使われる用語で、90代末頃から日本でも広く使われています。1988年に開催された『FIFAワールドカップ』フランス大会に日本が出場したころから、マスコミによって頻繁に使われるようになり、以来、日本ではスポーツの分野だけでなくビジネスの分野でも広く使われるようになった。一般的には「やる気」「意欲」「士気」などの意味で、ややあいまいに使用されている。

モチベーションとか動機づけというより、「やる気」といった方が分かりやすいようにも思われるが、「動機づけ」をやる気といわないのには理由がある。例えば、ある人が仕事に対して「一生懸命働きたい」あるいは「目標を達成したい」と意欲をもっているとする。他の人も全員そうなら、それが当たり前のことなのだが、ある特定の人だけが、「一生懸命働きたい」あるいは「目標を達成したい」と意欲をもっているということは、そこには何か理由があるはずである。

確かに意欲的に行動している人には、「みんなから認められたい」とか「もっと進歩したい」あるいは「報酬を多くもらいたい」といった個人的な理由が見られる。つまり、動機が先にあるから、意欲が後から湧いてくると考えられる。ということは、意欲的でない人でも、意欲的になる動機を与えてやれば、意欲的に行動するはずだという発想に端を発しているのが「動機づけ」である。

一方、インセンティブは、モチベーションと似ているが、内容はかなり違う。インセンティブは役割の自分に働きかけるのに対して、モチベーションは本当の自分に働きかける。広く浸透している「インセンティブ」は、「意欲」や「刺激」といわれているが、「モチベーション」は本来の自分にアクセスして心の内面から意欲を高める。そして、「インセンティブ」は、報酬などを期待させて、「役割性格の自分」にアクセスする。つまり、外側から意欲を高める働きをするもので、「お使いに行って来たらご褒美をあげる」というのはインセンティブで、動機づけとは言わない。