自分のキャリア形成は自らの手で

 組織の枠の中で協働することが使命であったため、自分のキャリア形成は思うに任せなかったという側面は確かにある。しかし、誰の人生でもない自分の人生を演出するのは自分以外にはないのである。厳しい言い方をすれば、時代の要請に応えうるキャリアを蓄積してこなかった責任は、自分でとるよりほか仕方ないのである。
 高齢者雇用アドバイザーとして活動していた頃、定年延長や再雇用制度の設計をする話になると、企業の担当者からこんな質問がよくあった。「定年退職者を何らかの形で継続雇用するのはいいが、年金との兼ね合いもあるのか、継続雇用者はモラールが極端に低下して若年者のやる気をそいでしまう。何かよい規程はありませんか?」というものである。
 現行の就業規則を見せてもらうと、服務規程や懲罰規程の中にはかなり厳しい文言が並んでいる。そこで、私は次のような質問をしてみる。「定年前はこの規程をどの程度適用していますか」。すると、殆ど適用していませんという答えが返ってくる。「適用しなければどんなに立派な規程を作っても宝の持ち腐れではないですか」と応じる。
 人事の担当者に言わせれば、定年前は勤勉であったが、定年後再雇用(継続雇用)されると、厚生年金がもらえるのでそれほど無理をして働く必要はなくなるため、と考えているようだが、保険にはたしかにそうしたモラルハザード(道徳の落し穴)を誘引する欠点はあるが、全ての高齢者がそうしたモラールが欠如しているわけではない。
 定年前の仕事振りから、本人のモラルレベルを測定する装置がなかったか、あるいは作動していなかったかである。貢献と誘引のバランスが雇用契約の出発点であるとするならば、こうした従業員は、定年時まで在職し続けられる管理体制に問題があったと言わざるを得ない。この非効率は経営にとって測り知れないものがあると推察される。
 こうした馴れ合いの構造をある日突然改めるのは難しいことを、担当者だけではなく上層部も熟知しているので、希望者全員を継続雇用する制度を敬遠するのである。嘱託規程に「現在の就業規則の懲罰規定を準用する」という内容を盛り込んではどうかという提案には否定的である。高齢者にも自分のツケを清算すべき時期が来たのである。